沖縄から伝わった奄美の三線

奄美三線 唄遊び

奄美の三線はどこから来たのか?

奄美の三線が何処から来たのか?という話ですが、まずは三線よりも長い長い歴史が唄にはあったという事です。

伴奏なしの唄、アカペラで唄っていたと言います。今も祭りで歌われる8月踊り唄などは、江戸の時代よりも昔から存在していたそうです。

奄美に少しでも興味がある方は御存知の通り、奄美群島は、薩摩の圧政によって徹底的に苦しめられたという歴史があります。そんな中で多くのシマ唄が生まれ、奄美の歴史はシマ唄の中に刻まれ、代々歌い継がれて来たのです。

薩摩の支配は、それはそれは徹底したもので、小さな島の中でこれほどまで言葉が違う理由も、村々の交流を禁じたからだとも言い、奄美に関する書面などは全て廃棄して一切残って無いほど全てを自分たちの支配下に置いた悪政だったのです。

当たり前に考えて、そんな暮らしの中で三線という楽器を手に入れて楽しむ余裕などは現実的に無かったということ、伴奏なしの唄だったということです。

奄美の三線はお金持ちの楽器

奄美三線 唄遊び

奄美で三線が一般に弾かれる様になったのは、戦後からだといいます。

沖縄には既に15世紀の時代から、中国から伝わった三線音楽があり、奄美の三線は何時の頃かははっきりとしないものの、沖縄から持ち込まれました。

例えば漁師が奄美に魚を獲りにやってきた際に、三線を売り払って帰ったとか、宿賃の代わりに置いて帰ったとか、意気投合して貰ったとか、そんな話を私は実際に加計呂麻の祖父から聞いたことがあります。

だんだんと景気が良くなるに従って、お金持ちの家では、人が集まっての祝い事、宴会時に三線の一つも床の間に置いて無ければ格好が悪い、みたいなことがあったみたいで、さらに唄者(うたしゃ)と呼ばれる唄名人はそのような家に招かれて唄を唄って回ったそうです。

先の私の祖父はそんな唄者だったそうで、子どもたち、私の親たちは祖父がお祝いの席などで持ち帰る祝い膳が楽しみだったという話を聞きました。

そんな感じで、テレビもラジオもそもそも電波が入らないという時代に、娯楽といえば宴会、唄遊びしかなかったわけです、三線はあっという間に各家庭へ広がり、この頃に三線を伴ってのシマ唄がどんどん洗練されていったのです。

シマ唄は日本民謡の南限

奄美群島は、奄美本島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の事を指しますが、徳之島、奄美大島、喜界島は本土と同じ五音音階の陽音階が使われ、日本民謡の南限という側面を持ちあわせながら独特のシマ唄の世界観を持っています。

沖永良部、、与論島は琉球音階が使われ、奄美のシマ唄とは違う琉球民謡となります。奄美大島本島の端から与論島までは約200キロ、与論島から沖縄の北端までは約25キロしかありません。

こうして島のある場所や文化を眺めれば、行政が分けた区域の不自然さが浮かび上がって来るように思います。

 

沖縄三線と奄美三線の話を沢山、思いつくまま好き勝手に書いてますが、奄美の血を引く者として、少々奄美寄りな話が多くなるかと思います。宜しくお付き合いください。

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